漫画家・椎名うみさんの「海の近く」というエッセイを読んだ。
SUUMOタウンという、いろんな人が住んでいる街について書く連載の一本。

読んでいるあいだずっと泣いていたので、感想を書きます。
冒頭について
「青野くんに触りたいから死にたい」、発売された頃からずっと読みたいと思ってるのに、自分の中の何かが崩れてしまいそうな予感がして、なかなか手に取れていなかった理由が、椎名さんのこのエッセイを読んでわかった。いつかは絶対に読むんだけど。
きっと、気持ちがわかりすぎて辛くなって、生活が崩れるのが怖かった。まだ読んでもいないのにね。
似たような生育環境で育った人の作品は、オーラですぐにわかる。そういう洞察力ばかり、33年間で研ぎ澄まされてしまっている。
私にとってはそれがフィクションのエンタメではなくなってしまうから、いつも、ふれるのには勇気が要る。
心が健康な時にちゃんと摂取したいと思ってる、そういう作品たちは。
きっと私はまだ不自由で、彼女ほど解き放たれていなくて、まだ根無草になりきれていないけど、そのうち根無草になる予定だから、そしたらどこに住みたいかな。帰りたいかな。
『満月の海』について
私も海の近くに住みたいと思ったことが何度かあるけど、私は泳げないから、きっと、何かあったらすぐに溺れてしまう。
アジカンが大好きな友達に誘われて、江ノ電に乗って聖地めぐりを2回したことを思い出した。2年前と3年前に。
このへんに一度住んでみたいって、降りた駅でふと思ったことを思い出して、親近感が湧いた。
だけど人と心と心で出会うのって難しい。
まず安全な二人だけの領域を用意しなくちゃいけない。そして安全な二人だけの領域を用意することができたとしても、それが「安全な二人だけの領域」であるが故に、簡単に危険な場所になってしまう。
ここの文章がすごく好き、私もいつも考えていたことだから。
危険な場所に踏み入るのが怖くて、一人でずっと勉強してた。健全な人間関係について。
友達に話したらきっとまた、「私の1週間分の思考を数時間でやってる」って笑われてしまうかも。つまり考えすぎってこと。
そんなに考えてばかりいたら、どんどん人間への耐性がなくなっていって、求めている安全が遠のいていくのもわかってるのに。
私は海沿いの港町で育っていて、海はそんなに遠い存在じゃない。家自体は海に近くなかったけど、街全体に潮の香りがしていたことに、実家を出て初めて気づいた。海沿いの街は風が強いから。
私はできるだけ地元を思い出したくない気持ちがまだまだあるから、椎名さんは海と心で繋がれていて少しだけ羨ましい。
今私が住んでるのは築古マンションの一室で、玄関のドアを開けると、住んでいる土地で一番大きな山がちょうど見える。
夕焼けの時間はとても美しくて、ついマンションの廊下で見入ってしまうから、自分で呼んだエレベーターに乗り損ねる。
椎名さんが、山のことを神か王みたいだと例えるのが興味深かった。私にはなかった視点。
私の育った家では神様は空の上にいるものだと刷り込まれて育ったから、未だに神はなんとなく果てしない空の上に君臨してるイメージが浮かんでしまう。
日本で生まれ育ってるのに、八百万の神々がいまだにわからないまま。だけど自然は大好き。
『カフェでネーム』について
今のマンションに引っ越してきてからしばらく、部屋の中にいるのが落ち着かなくて、カフェ通いをしてたことを思い出した。
漫画家さんもカフェに通ってネームを書くんだって、驚きとともになんだか納得した。
ネームを描くことは、身投げみたいだなと思う。
これが健康的なことなのかは、ちょっと分からない。生身の心を紙の上に載せて知らない人に開示することを、わたしは必要としているけれど、同時に傷ついてる感触もある。
癒やしと傷が両輪を成している
この気持ちはすごくわかる。私も昔は小説を書いていたけど、それが心の健康を悪化させている気がして、筆を置いてしまった。
漫画家さんは、仕事でも裸の心を使っていて本当にすごいと思う。
私はそこから逃げているから、少なくとも今は。もう少し元気になるまで。
この間、人に長年、一番言えなかった個人的な話を初めてしたとき、すごく恥ずかしくなったのは、急に裸になったからだって気づいた。
自分のことをはしたないと思ってしまったんだ。相手からしたらなんてことないことなのに。いや、なんてことないことなのかもしれないのに。
自殺についての考え方
自殺について、20代の頃はずっと考えていた。自分も希死念慮を抱えていたし、自分の好きな人たちが何人も自殺していったから。
なんなら、最初に希死念慮が湧いたのは高校1年生の頃。あと少なくとも3年はこの生育環境に馴染んでいるふりを続けなきゃいけないのか、って頭でげんなりしていた以上に神経系には既に限界が来ていて、本格的に心にヒビが入り続けていた。
自殺はその人の(精神的な)寿命だ
って書いてある小説があって、友達がそれに同意してた、大学時代のとあるカフェでの時間を思い出す。
私は、自殺は寿命だと言い切るのは、生き残った人々に少し都合が良すぎる解釈だと思ってしまう。死人に口なし。自分たちの後悔ややるせなさを薄めたいだけなのでは、なんて。
私は、どちらかというと、自殺は突発的な事故派で、たまたま誰かがそこにいたら止められる類のもので、寿命とは言い切れないと思う。
自分は苦しくなると動けなくなるタイプで、衝動的に行動するタイプではなかったけど、もし自分だったら、誰かに止めてほしかったからかもしれない。
止めてほしかったって過去形なのは、今はすっかり希死念慮が消えたから。だから吞気にこんなことが言えるのかも。
あれは環境由来の呪いだったんだってわかってしまった。離れたら次第に消えたから、あれは私のものじゃなかったんだと思う。自分の性質ではなく、置かれた場所が作ったもの。
だから私は、「置かれた場所で咲きなさい」なんて、誰にも、二度と言わせない。
それでも、誰もがここまで逃げ切れるわけじゃないこともわかってる。
「死にたい気持ち」は単なる事実だから肯定されるべきだし、実際に行動に起こすことはまた話が違うので止められるべきだと思う。良いとこどりの考えなのかもしれない。
私は幸せに生きたい意欲が強いから、まだ幸せにはなりきれてないから、自分を幸せにするまでは創作はお休みするんだと思う。
でも、だからこそ椎名さんみたいな人の身投げみたいな創作は、すごいと思う。勇敢だ。
私はいつあの漫画を読めるだろう。
なかなかにシリアスな10代と20代を過ごしてきたのに、なんで今こんなに頭がハッピー野郎になったのかもよくわからない。年を取ることは、私にとっては祝福だった。
なにより、泣けるようになった。一番つらかった時期が、一番泣けなかった。
涙がこぼれるようになっただけでとても幸せに感じる、泣いていい場所が今はあることも。
高校時代に、自分の感情を抑圧しすぎていたせいか、気付いた時には泣けなくなってたり、実家を脱出して一人暮らしを始めたら、急にダムが崩壊したみたいに一人で大泣きしたりしていたのに、今はしずかに涙がこぼれる。
だからこそ、長生きはするべきだって考えになってる。
未だに、好きな友達やアーティストの死に毎年思いを馳せる。誰も間違ってないのに、ぜんぜん正しくもない。
恋愛が人を救うわけじゃないんだって、友達だったあの子から学んでしまった。あの子も文章を書く子だった。熱心に詩を書いていた。手紙のやり取りも何度もしたし、あの子の家に泊まらせてもらった。
彼氏ができて結婚して子供が生まれて、それで幸せになったわけじゃなかったって知ってしまった。
うちは仏壇も墓参りもない特殊な家だったから、みんなみたいに、先祖の死に思いを馳せたりしない。
だけど、自分の好きな人たちの死は絶対に忘れられない。
手が触れられる距離にいたあの子も、遠くで輝きを放ってたあのアーティストも、ほんとは生きててほしかったし、また会いたかったから。
いつか私ももっともっと気力に満ち溢れて、椎名さんみたいに、死の疑似体験みたいな書き方の小説を書けるかな。
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